外道です。
石牟礼 道子 氏の自伝的小説「椿の海の記」を独演するというイベントを第1章、第2章と観に行きました。
記事を執筆せざるを得ないためいろいろ記載します。
[関連リンク]
独演 椿の海の記 ~もう一つのこの世をもとめて~
https://www.tsubaki-dokuen.com/
私が観に行った時のBGMや効果音は
第1章ではカリンバや太鼓(レク)、第2章はコントラバスや各種の飛び道具を駆使して演出されており、面白かったです。
井上 弘久 氏 のFacebook
https://www.facebook.com/HirohisaOfficial/?locale=ja_JP
今後のイベント情報はこちらをご確認下さい。

椿の海の記 (河出文庫) 文庫 – 石牟礼 道子 (著)
原作です。Amazonでポチリましょう。
第 47 回法政大学大学院まちづくり都市政策セミナー
「新たな地域主義の構想に向けて」
基調講演「石牟礼道子の世界と地域の未来~生命たちの賑わいを感じ取れるか?~」法政大学名誉教授 田中優子氏
https://www.hosei.ac.jp/application/files/3016/7926/8508/47.pdf
こちらは本件とは直接の関連はありませんが、補足資料になると思います。ぜひご一読を。
さてこのイベントは俳優の 井上 弘久 氏が登場人物全てを演じ、形態模写やら風景描写やらも全て一人で演じてしまうという、とんでもないイベントです。
・語り手 執筆当時の石牟礼 道子 氏 (井上 氏はイケボです)
・子どもの頃の石牟礼 道子 氏「みっちん」
・石牟礼 道子 氏の父
・石牟礼 道子 氏の母
・石牟礼 道子 氏の祖父
・石牟礼 道子 氏の祖母
・その他登場人物
・海から打ち付ける波
・船の竜骨
すべて演じられております。
プロの俳優なんだから当然だろと思われるかもしれませんが、狂気のようなものを感じます。カンペの持参はありません。
全て演ずるといってもタモリやハリウッドザコシショウとはまた違った意味で強烈なものがあります。
はっきりいって相当入れ込んでいると思われます。しかも、これ以外の演目の練習も欠かさず行っているようです。
こういうお仕事の方は練習時間も総労働時間としてカウントした場合にエライことになると思いますが、好きでやられているのは間違いないです。でないと過労死してしまいます。
一体、何が井上 氏をそうさせるのか。
どうやら、死者と仲良しになって謎のエネルギーを得ている可能性が高いです。死者と言ってもご先祖さんとかではありません。
「椿の海の記」の中に出てくる登場人物は故人です!
著者の石牟礼 道子 氏も2018年にご逝去され故人です!
雨月物語とかと一緒でそれらの怨念がそうさせているとしか思えません。(エビデンスはありません。)
私は謎のエネルギーの正体を探ろうと、石牟礼 道子 氏の「苦海浄土」という作品を購入して読んでみましたが、結構強烈でした。
井上氏が本当に演りたいのは「椿の海の記」ではなく「苦海浄土」の方じゃないんですか? そんなことないですか?

新装版 苦海浄土 (講談社文庫) – 石牟礼 道子 (著)
おすすめです、Amazonリンクです。
風景描写が細かすぎてくどい感じは個人的にやや苦手ですが、ノンフィクションあるいはルポルタージュっぽいところはサクサク読めました。説明が細かいとかえって嘘くさく感じてしまいがちでしてすみません。
「椿の海の記」の水俣周辺がある企業(チッソ)の城下町になり、垂れ流しにされた排水が原因で周辺住民と自然環境が被害を被った状態の話です。(小学校で少し習ったのを思い出していただきたい。)
「チッソは工場排水が水俣病の原因とわかってからも、操業中止などはしませんでした。」というのも結構重要点です。当時は「コンプライアンス」などという概念はなく、城下町ではとにかく経済発展第一という感じです。
しかしながら、利益を享受する方がいる一方でその犠牲になる方がいるという図式はいつの世にも付きまとう問題です。(これは「コンプライアンス」という言葉があろうが無かろうが残念ながら今後も続きます。)
[ご参考]
環境省 – 水俣病と水銀について
http://nimd.env.go.jp/archives/minamata_disease_in_depth/
水俣病資料館 – チッソはどのような会社だったのですか?
https://minamata195651.jp/pdf/tishiki/10tisiki_04.pdf
作中には聞き取り調査の記録やら事実に基づいたデータが満載です。
(データの事実確認は石牟礼 道子 作品の研究者・専門家の方にお任せします。)
「苦海浄土」内で「水俣病患者に金銭的な補償をすべきだろうが」という流れになるのですが、今の政府の対応と作中の政府の対応が不誠実具合がほぼ変わらないんですね。見事になんも変わっちゃいねえ感じなんです。これには怒りを通り越して感心しました。
ある意味公平な対応なのかもしれないなあと思いましたが、恨めしい感じです。
本書では、水俣病で亡くなられた皆さんの命を安く買いたたく酷い様が記述されております。この契約書締結以降はいかなる補償もせんぞ。と
その後、被害者家族は「金なんか要らねえからあんたらも水俣病になれよ!」みたいな感じです。
原因判明してこれですから、病気の原因が判明する前(あるいは政府が惨状を認める前に)に亡くなった方はもはや気の毒としか思えません。
と考えてしまいますが、
実はなんと現在の我々も似たような事態に直面しているんですよね、これ。
石牟礼 道子 氏もご立腹のご様子です。
Wendy net – 天草のこと、水俣のこと。「魂の叫び」を言葉に。
確かに、私も
福島原発から放射能がダダ漏れの状態でお魚をおいしく食べまくってますし、
今後も、
コロナワクチンの薬害訴訟とか
国民年金がグダグダになってみんなが返金を求めて暴動が発生したり、
iDecoやDC制度で運営側の関係者に先に売り抜けられてみんな大損こいてムカついて一揆を起こしたりとかも十分あり得ます。
(注意:あくまでも憶測です)
どうですか? そろそろ謎のエネルギーを感じますか?
ただの怒りのエネルギーじゃねえのかという説もありますが、結論付けるのはまだ早いです。
このフラトレーションを
ゲームやらTVやら映画やらエロ動画やら
娯楽で今を誤魔化そうとしても厳しいものがあります。
のうのうと生きていて大変申し訳ございません。
死に取りつかれているという意味では全く他人事ではありませんからね。
いささか縁起が悪い表現ではありますが、
我々は「市民ではなく「死民」なんだ、参ったね!」ということを考えてみるのは良いと思います。
で、私のように呪いやら幽霊やら神を全く認知しない人間なんかは、
「どうせ自分もゆくゆくは死ぬんだから今のうちに死者と仲良くしても問題はないだろう。別に恐れることはないだろう。」ということになります。
先に亡くなられた方から大事な知識を共有してもらったり、考えに共感して自分に活用し、リスクを回避したりしようという点では非常にメリットが大きいです。
そもそも皆さん、故人の作品に触れたりすることは全く抵抗ないでしょう? 本も音楽も映画もそうじゃないですか。生きている人よりある意味信用できるかも知れませんよ!
この独演「椿の海の記」も同じようなものです。
井上 氏の迫真の演技が恐ろしいですが、他全く問題はありません。
上演中、長時間硬い椅子に座り続けないといけないのがしんどいくらいです。(腰が痛くなりました)
11章まで独演を観るのは個人的にはちょっとご勘弁願いたいです。
臨場感はありますが、寝っ転がって本読んだ方が明らかに楽ですから。(あと、コスパも良いです。)
あと、石牟礼 道子 氏の人生の一部を追体験してもしょうがないんですよ。
美しい日本語とノスタルジックが表現が良いというご意見もわかりますが、私は各々が自分の4歳、5歳を頑張って思い返す方が有意義だと思います。
ただ、こういったイベントをきっかけに歴史から学ぶことは大事だとは思いますが、そもそも学ぶ気がない人はこのようなイベントを見聞きしてもなんとも思わないでしょう。なんせ、そういった事に全く興味がないでしょうから原作本を買おうとも思わないでしょう。
このような当時の無念を少しずつ是正していく動きは見られますが、そもそも偉い人がその問題に興味がない場合はすごーく解決に時間がかかります。なんでもそうです。
偉い人も仕事でやらなければいけないことがありますから、自分や自分の身内に被害者が出ない限りは優先順位が後ろになってしまいます。
よって、権力を持っている方への問題の共有や根回しが非常に大変なんですね。その間に当事者が亡くなれば風化してしまいがちです。
結果、次の世代も同じような事で苦しむ羽目になります。
単に長生きすればよいという事でもありませんが、この現象一体何なんでしょうね。
「のど元過ぎれば~」ではありませんが、人類史はこんな事の連続です。だからといって、全員くたばってリセットする事態は回避したいところです。
油断すると「人肉食が復活する」など、以前の文明レベルに戻ってしまいそうですから気を付けましょう!
死んでしまえばある意味諦めもつきますが、
死ぬ間際に「腹立たしい+虚しい」だけだと思われます。
理不尽な難易度のクソゲーみたいなもんです。
一方だからといって、死んだ人間が生きている人間にごちゃごちゃ言って来られても妙な感じがしますし、邪魔くさい感じがします。
例えば、OBとして自分が卒業した学校にわざわざ来てガタガタ言う暇人が居るんでしょうか。
あなた、自分の母校の小学校とか中学校に行って現役の生徒に説教しますか?
いや、たまにいるか。面倒見が良いのか、過去を懐かしんでいるのか、自分が威張りたいのかは個別に事情があるので問いませんけど。
良かれと思って説教されても困るんですよね。
なので、死者から生きている我々に口出しは無用です。
一方で、我々が死者と考えが一致する場合は若干心強かったり、なんらかの行動をするきっかけになる事はあります。なんせ大先輩ですから参考にはしたいところです。
私はアルゼンチンタンゴで昔の演奏方法を調べていた時に、当時の方と仲良くなるような感覚がありましたからちょっとわかります。(その間は若干取り憑かれたような謎の熱心さも発生します。)
ただ、能や浄瑠璃は死者を演じることで本人を代弁しているような感じではありますがあくまでも「類推・想像・創作」だということをお忘れなく。本人の意識の最新版をこちらにアップデートする術は基本的にはありません。
[メリット]
・死者の生前の考えと自分の行動目標が一致したときに謎のエネルギーが得られやすい。
・死者の知識や経験を参照して利用可能 (エラーを避けたり、既出の問題を解決することが好ましい)
[デメリット]
・死者のノウハウを盲従してしまい、自分の意志で先に進めなくなるリスクがある。(例:伝統的な武術なんかは自己流のアレンジは一切許されない傾向です)
・何かにとり憑かれて現在生きている周りの人と話が合わなくなってくる。(ときには対立も起こり得る)
・悪化すると幻覚や妄想に悩まされることも有
以上を踏まえて、死民の皆様にお悔やみ申し上げます。
おっと、私も死民の一員です。
完